賢治さん

Bloomingtonに来て一番良かったことは三心寺というお寺と出会えたこと。まだまだ勉強不足ではあるけれど、背伸びをせずに過ごせる場所に出会えたという実感がある。僧侶の奥さん、奥村優子さんとの出会いもとても大きかった。彼女を通して、日本で考えていたけれど答えが見つからなかったことの多くに辿り着いた気もしている。その一つに「賢治の学校」という雑誌を紹介してくれたこと。加えて、そのことを、日本の知り合いに話しているうちに、あれよあれよと、「賢治の学校」DVDを送って頂けることになり、英語字幕がないので、日本人の数名で鑑賞会をしていた。

宮澤賢治さんの童話に「バナナン大使」というものがある。その教えから、「賢治の学校」発起人の鳥山敏子さんは「賢治の学校」の意義を以下のように書かれている。


この「賢治の学校」は、「あらゆるものとたたかわない」「あらゆるものを敵としない」という精神で貫いている。「たたかう」ことは、繋がりを切ることになっていくからだ。
賢治の作品の中で、「敵にしない」「たたかわない」ことを貫き通している。
(中略)
あらゆる立場、役割を越えて、私たちはつながっていこうではないか。だれかを不幸にして、自分をスカッとさせることは、自分をも不幸にしていくことに気づき合いたいと思う。自分を本当に元気に幸福にしていくことと、地球のためにすることとは一つである。環境運動が人をおとしめ、排除していくものを内包していれば、本物ではないだろう。


誰かのせいにしたり、欠点を述べることはとても簡単。だけど、震災以降、やっぱりもっと大事なことは何かと考えると、戦うことではなく、認め合うこと。話し合うこと。この鳥山さんの文章を読んで、「もののけ姫」のアシタカとエボシ様のことを思い出した。エボシ様は近代人である私たちそのもの。アシタカはエボシ様とたたかわず、’曇りなく眼で見定め’、共に生きる。私は、アシタカの声を聞きながら何と答えることができるか。それは、宮澤賢治さんの物語を読んで、どう生きようと思うか、という答えと重なるはずだ。