2012 選挙


日本では選挙が終わった。都知事選も同時に終わった。私個人的にはこれが現実なのだと、改めて思えるものだった。Facebookでは、重要な情報が飛び交っていた。とにかく、今回の選挙で国民の意見を届けなければいけない。けれど、敗北というような虚無感。これら一連の流れを、政界は憂に楽しんいたのかもしれない。


私個人の感情が社会というものに接したのは、やはり大学を卒業した後、両親の臑を嚙れなくなった(とは言いつつも齧り続けているので、出来るだけ頼らないようにと考え始めた)あとだろう。固定収入のある仕事も付いたことがあるけれど、芸術を考える上では社会の構造をより見たい、という意識故に就職活動を積極的にすることは出来なかった。「マイノリティ」という立場について、考えたいと思い続けている。


インターネット上で流れる情報を受け止めつつ、混乱している自分がいた。責めたくはない。けれど、感情が責めになってしまった。


私が知る多くの友人は、去年の震災以降、一人一人の形で脱原発運動をしている。今回の選挙も、脱原発憲法改正反対、消費税増税案、尖閣諸島問題が焦点だった。結果は、私たちが望まない右派が圧勝し、わたしたちの意見は少数(マイノリティ)なのだということを数字が示した。これだけ、福島が深刻な状態にあるはずなのに、原発を止めるどころか、他国へ原子力技術を輸出したり他国からの廃棄物を受け入れるということも含め、原子力を巡る話は対世界の間で肥大化している。

どうしてなのだろう、と考えると、今回の投票を支えたマジョリティを作り出しているのは、私自身だという責めが自分にはあるという考えに辿り着く。この場でマジョリティだという人は、社会的にはマイノリティなのではないかと思いあたる部分がある。危険だとしりつつも生活を支えるために原子力がなくなってはいけない仕事としている人、つまり、政治によって生計が成り立っている貧困層の人が、日本にはとても多くいるのだろう。自覚がない人の方が多いのかもしれない。自分は日本のために良いことをしている、且つお金になる仕事をしているのだ、という人も多いのかもしれない。(まるで戦争のときの話のようだ。)いまの政治の力を必要としている人にも、いくつかの階級があるだろうから一概に言えないけれども、直接、原子力ムラで働いている人はもちろんだけれど、日常にありふれている仕事が原子力やそれを巡る経済とどう関わっているのか、考えなくてはいけない。

私の兄は、日立とソニーで働いている。そういった電子機器メーカーが原子力と無関係だとは思えない。銀行も然り。本州・北海道・沖縄、あらゆる場所で新しい道、ダムやトンネル、基地を作るために土木工事は今も続いている。工業地区で働いている人たち、今回の原発で明らかになった原子力ムラをはじめとする村では、政治によるお金が今でもモノを言い続けている。私たちが反対運動をすることは出来るが、彼らの生活と引き換えに出来ることはいまのところ想像がつかない。環境問題を述べても彼らにはそれと引き換えに出来ることがないだろうと容易に想像ができる。



アメリカでも、日常で接する人は、ある一定基準以上の生活をしている人が多い。少し町を離れると、掘建小屋のような家がたくさん見受けられる。道一つ越すと風景はがらりと変わる。そういったものが何なのか。世界を構築しているものを知り、その中で、自分はどのような佇まいを選択できるのか、するべきなのか。



小説家や芸術家がそういった社会的背景に何を考えていくのか。どういった態度を示していくことができるだろうか。