胃痛と夜と霧と

こんなに調子が悪いのは久しぶり。胃液というのかな、とにかく胃がズキズキ痛み、自分の口臭に参っている。

地震で知り合いの自宅の本棚が崩れたので、それを機に連日、掃除の手伝いをしている。写真、哲学、科学、文学と、本を手に取るだけでも楽しい時間。「人生とはなんぞや」とか「美術の価値が今回の地震で変化した?」こととかを語りながら、彼の今までの仕事の量にも圧巻している。



「夜と霧」の本が出てきた。読んだのは5年くらい前だから、もう一度今、読み直したい。あのフレーズを呪文のように唱えていた。
『人生から何をわれわれは期待できるか』が、問題なのではなくて、『人生が何をわれわれから期待しているか』が、問題なのである。『私が人生の意味を問う』のではなくて、『私自身が人生から問われたもの』として体験される。人生は、私に毎日毎時問いを提出し、私はその問いに、詮索や口先だけでなくて、正しい行為によって応答しなければならない。

(一) 私たちは多くのものを失ったが、それでも失っていないものがある。少なくともまだ生きているものは、希望を持つ根拠を持っている。健康や家庭の幸福、家族、職業的能力、財産、地位…これらはかけがえのないものではない。再び作り上げることのできるものである。私を殺さないものは私を一層強くさせる。
(二) 私たちは、如何に生きのびる可能性が少ないか予測できる。生きのびるのはこの中の5%であろう。しかし、だからといって落胆し希望を捨てる必要はない。なぜなら、如何なる人間も未来を知らないし、次の瞬間に何が起きるのかを知らない。
(三) 同様に、過去は、現在の闇の中に差し込んでくる全ての光と喜びである。過去の生活の豊かな体験の中で実現化したものは、奪われることはない。為したこと、悩んだことも、永久に現在の中に組み入れられている。過去は最も確実な存在である。
(四) 人間の生命(いのち)は常に如何なる事情の下でも意味を持つ。この存在の無限の意味は、また苦悩と死をも含む。私たちの戦いの見込みのないことは、戦いの意味や尊厳を少しも傷つけるものではない。近づきつつある最後の時に、私たちを誰かが求めるまなざしで見ている。一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者、一つの神が。彼は、私たちが「その苦悩にふさわしく」あったかどうか見ている。私たちが「哀れに苦しむ」のではなく「誇らしげに苦しみ死ぬ」ことを知っていることを期待している。
(五) 私たちの苦しみと死は意味を持っている。この苦しみや死から何の成果も得られない(打算がない)からこそ本物の犠牲だといえる。この我々の犠牲は意味を持っている。本当の信仰を持っている人はこのことを知っている。彼は収容所に入れられた時、天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛にみちた死を取り去ってくれるようにと願った。この人にとっては苦脳と死は無意味なのではなくて・・・犠牲として・・・最も強い意味にみちていたのである。