沖縄と鶴見さん

1月25日大晦日
映画・久高オデッセイの音楽を鶴見幸代さんへお願いすることになり、旧正月に久高で一緒に過ごした。インフルエンザが完治していたかどうか、不確かではあったが、大晦日の朝一の飛行機で沖縄へ飛んだ。年越しの食材を買い込んで久高へ向かう。安座真港ですれ違いの鎌田先生と挨拶し、フェリーでは大重さんの古くからの友人、長谷川敏彦さん(日本医科大学)と遭遇。徳仁港に着くと須藤さんと鶴見さんが迎えにきてくれた。
鶴見さんも長谷川さんも久高は初めてだということなので、自転車でカベールまでいくことになった。外間殿に行くと、島人が翌日・旧正月の準備をしていた。鶴見さんを島人に紹介。久高のわらべ歌を聞いてもらいながら昔の情報を聞き出す。フボウ御獄、カベール、イシキ浜など、儀礼の要となる場所を回る。鶴見さんは感じやすいようで、宿にもどるなりぐったりしていた。大晦日の杯。玉那覇さんが来てくれたので、鶴見、須藤、私は塩で清めてもらう。10時頃まで呑んで早めに就寝。

1月26日旧正月
朝、6時頃起床。みんなでピサ浜へ初日の出を見に行く。7時16分頃、水平線と雲の間に綺麗な赤い太陽が昇った。何度も日の出を見に来ているが、水平線から昇ったところを見たのは初めてのこと。今年一年よい一年になりますように。
10時頃から外間殿にて旧正月の祭りが始まる。始まって間もない頃、監督が立って撮影を始めるものの、玉那覇さんのカチャーシーを撮影しながら倒れる。倒れる=島にとっては不吉なことである。洋子さんから「充分に気をつけるように」いつもは優しい洋子さんの目が笑っていない。監督には座って撮影をするように促した。鶴見さんには音楽家として招待をしたものの、須藤さんも私も撮影で手一杯なので監督の世話役をお願いすることになってしまい、すこし申し訳ない気持ちがあった。午後2時頃に一通り終わり、一度宿に戻る。少し休んでから栄光おじぃの家→並里家→福治家をまわり9時頃宿に戻る。旧年に忌みがある家には三線が鳴らない。並里家はとても静かであった。
大重さんが倒れた件について、(毎度であるが)島からの攻撃を須藤さんが受ける。ぼこぼこの顔で宿に戻ってきた。

1月27日
午前中、風景の撮影をし、鶴見さんと私は午後1時のフェリーで戻る。斎場御獄に行き、ちかくの雑貨屋に寄るとアイヌのヒロコさんの刺繍を発見。鶴見さんも私もすっかりその雑貨屋で買い物を楽しみ、隣の珈琲屋で久高島を眺めながら一服。須藤さんたちのフェリーが着くと同時にバスで那覇へ戻る。
鶴見さんのご家族へのお土産を買いに市場周辺へ出かける。その後、須藤さんと鶴見さんとうりずんへ。偶然、隣にいた芸大の先生による三線の音が鳴り、綺麗な舞踊を眺めながら宮の鶴をなめる。至福のヒトトキ。昭和茶屋で平敷さんの写真を見てから、首里の上地昇さんのご自宅へ向かう。今回、久高オデッセイの音楽は、鶴見さんの曲を上地さんが構成することになる。今日は二人の顔合わせとなる。とてもいい出会いの場に安堵し、私は一人首里から久茂地まで、約一時間、歩いて帰宅。


どうなることか、と、実は結構ドキドキしていた。私も沖縄に来ると出来事の多さに疲労は隠せない。沖縄=ゆんたくは観光としての一部の側面でしかなく、私達撮影班と行動を共にすると、沖縄のこと、島/島人のこと、沖縄を外の人間が撮影することなど、普段は考えなくてもいいことに巻き込まれる。鶴見さんがそのことを引き受けてくれるか、少し心配だったのだ。
結果的には、良かったのだと思う。どんな曲が生まれるのか、心待ちにしながら、曲を迎えられるように編集を進めること。上映会まであと37日。。