矢岳

父方の祖父の家に行ったのは、アルバムに挟まれている写真の記憶と合わせて今回が4回目。28年生きていて4回とはかなり少ない。祖父母が熊本から東京に出てくることもあったので、会ったことは4回より多いが、そうは言っても10回くらいだろう。

去年の10月3日に祖父は亡くなった。88歳だった。最後に会ったのは3年前に屋久島へ行った帰りに鹿児島からレンタカーを借りて1日会いに行った。鹿児島空港から車を走らせること約1時間。祖父は太平洋戦争で片足を射撃されており、昔からビッコをひいて歩いていた。年々、足の状態は悪くなり、3年前に会ったときはトイレとお風呂と就寝以外は歩いていなかったように思う。喜寿のお祝いに兄弟でセーターを贈り、そのお礼の電話が声を聞く最後となった。

鹿児島県と宮崎県と熊本県の県境にある矢岳という標高537mの山の中にある。2002年に矢岳にある小学校が廃校になり、今、子どもは一人も住んでいない。電車は肥薩線は5往復しているものの、人吉ー吉松間はスイッチバックループ線があるものだから地元の住民よりもビデオカメラを持ったテッチャンの乗車率が高く、おかげさまで乗車券も高く、座ることもままならない。人口よりも鹿や猪の頭数のほうが遥かに多い。そんな所だ。

祖父を失い、祖母は一人で暮らしている。矢岳は6世帯12人が住んでいて、全員が60歳以上である。3年前はまだ田んぼをやっていたが、今回その田んぼが草むらに姿が変わっていた。祖母83歳。足腰は元気なものの、いま、一人でご飯を食べていることを想像する。母方の祖母も同様ではある。日本中に同じ光景があるかと思うと高度成長期の産物は、想像を越えて悲しいものだ。都市で生活を強いられ、たとえ、両親の面倒をみながら生計を立てようという思いがあったとしてもそこには仕事はない。お米を作っても収入と呼べる額には届かず、自給自足どころか税金でマイナスになることが目にみえるのである。

抵抗をせず、日々を営む。先祖と祖父に一日何回も手を合わせ、変わらぬメンバーでゲートボールをし、野菜と花を採り、五右衛門風炉を沸かして入り、テレビを見ながら食事をし、床に着く。今日も明日も明後日も。祖母に祖母がいたころの風景はどんなだっただろうか。