嵐の後か 台風の目の中か

地震があった3月11日、台湾での写真展の初日。オープニングパーティは12日だったので、その日は一緒に展示をしているジェームスさんと博物館巡り。夕方ギャラリーに戻ろうと電車に乗ると、ジェームスさんのiPhoneアメリカからメッセージが入っている。 そのメッセージに違和を感じ、すぐ調べてみると日本でマグニチュード8以上の地震と出てきた。震源地は?東京は?家族は???

家族の安否は確認できたものの、震源地の情報が入ってこなかった。


翌朝、起きてテレビを付ける。CNNは被災地の映像を流し続けていた。9.11の時とそっくりで、得体の知れない恐怖を見せてきた。私の知り合いのいる街は「壊滅」と表示されている。先日見たクリント・イーストウッドの「here after」が脳裏に浮かぶ。人、家、車、ありとあらゆるものが波に飲込まれていく映像。。。

一体、日本でなにが起きたのか?夢ではないのだろうか。。。


事態は刻一刻と悪化し、帰国の16日、台湾の人たちからは「帰るな」と言われる。東京の兄弟や友達にメールすると「帰ってきても大丈夫だよ」と返事がくる。直前まで迷ったあげく帰る。しかし、羽田空港に着いて5分後に震度4程の地震。。。おびえている私とは裏腹に、電車の中の日本人は落ち着いている。どうして、平常心を保てているのか。どうして、こんなときに会社へ通えるのか。。。CNNでのニュースや、環境系のメーリングリストで提示されている情報を見ていたら、こんなに落ち着けないだろう。私だけが変なのだろうか。。。

その日は、風も強く、木造の我が家はがたがたがたがた。ネコも怖かったのか、私から離れない。母親を説得して、西へ行こうと言ったが、仕事があるから無理だとあっさり断られる。


冷静な気持ちを持てなくなっている自分の心をひとまず沈めるために、明石へ向かった。台湾で眠れなかったので、明石では、丸2日間眠り込んだ。3日目、東広島へ移り、石丸さんと色々話した。やっと、現状の危機感を共有できる人に出会ったと思った。日本への怒り、原発への不安、同時にそのことを探求せずに電気社会に依存していた自分への怒り。もう、どうすることもできない。

22日に東京へ戻ったものの、バイト先の仕事は激減しているようで仕事はないという。テレビも付けず、本を読んだり、お茶の稽古に行ったりする毎日。木蓮は満開を迎え、庭の菜の花やチューリップも春を告げる。木々、草花は動じず、私はいつも恥ずかしい想いをする。


原発の状況は、日々悪化している(と私は思っている)が、ニュースを聞くことも辟易し、震度2、3では驚かなくなり、普通に暮らしている。今は、台風の目の中の静けさだろうか、それとも嵐の後の静けさなのだろうか。